2011/12/03

本質

 いろんな人が色々なことをやっています。その中には似て非なるものが結構あります。似て非なるものの「非なること」がわかるかどうかということは実は考えなくても最初から明らかなことです。何がどうだからとかこれがこうなったからではなく、最初からこうであることはこうであるのです。


 中原中也の詩でいえば骨です。骨は状況がどうであろうと何も変わらないのです。変わるのは状況に影響される人だけです。


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詩人と住民ディレクター


 中原中也の詩について小林秀雄が書いている文章が全編見事と感じます。久しぶりに読んでみての感想です。少しだけ引用すると・・


 彼の詩は、彼の生活に密着していた、痛ましい程。・・言わば人生に衝突する様に、詩にも衝突した詩人であった。・・心理映像の複雑な組み合わせや、色の強い形容詞や、個性的な感覚的な言葉の巧みな使用や、補い難いものに狙いをつけようとする努力や、等々、そんなものを捨ててしまってやっぱり骨があった様に歌が残ったという様な詩である。

 
 この後半はテレビのお飾りの箱を捨ててごぼっと大地から抜いて泥のついた大根をどさっと投げ出す様な住民ディレクターの表現と共通するものを強く感じます。詩人の「骨」は住民ディレクターでは「大地の土」でしょうか。小林秀雄さんの批評の真髄は「他者の作品を借りて己を懐疑的に語る」こととご本人がおっしゃっています。


 一方で詩人は自らの身体の奥深くから歌うのです。住民ディレクターはやはり自らの身体深くから映し出すのですが共通するのは「生活」です。生活を歌う詩人、生活を映し出す住民ディレクター。歌うように生活を映し出せれば素晴らしいですね。

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