2011/05/20

 娘が二人います。ある時長女がこんな話をしました。


 社会に出てから仕事ができることを楽しみにしていた。最初の勤務地は鹿児島で転勤や異動で名古屋などへも行き、いろんな職場の人との出会いはあったが不思議なことがひとつずっとあった。誰一人楽しく働いていないことだった、と。
 
 幼い頃から父母を見ていて仕事は楽しくするものと思い込んでいたらしい。それほど父母は二人とも仕事のときも活き活きしていた記憶しかなかったらしい。この話を聞いて逆になるほど、と考えた。確かに自分自身がいろんな職場やテレビ局というサラリーマンも経験して楽しく生きている人はまずいなかった。だからというわけではないがいつも楽しく仕事をする延長線に起業があり、今につながる。


 今も難題は次から次へと来るがそれを解決する事自体が面白い。解決すると大きく未来が開かれるからだ。花という名前は産まれる前から決まっていた名前でそれ以外には全く考えが及ばなかった。本人も結構気に入っているとおもわれる。


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2011/05/06

東電、水俣の緒方さん

 東電への抗議集会の記事を読んで水俣を思い起こしました。そして緒方正人さん。
 わたしは熊本の民放でテレビ局の報道制作現場を14年間経験しましたが緒方さんは最も印象深い人の一人です。緒方さんは長い間水俣病の患者団体のリーダーでした。常に先頭に立っていました。しかし突如患者団体から抜けてしまいました。あるとき地元新聞に緒方さんの記事を見つけ理解しました。
 
 手記のような記事でしたがある夜、緒方さんはいきなりテレビを庭先に投げつけ壊してしまったというような意味の記事でした。患者運動の先頭に立っていた緒方さんは県や国に抗議に出かけると官僚や役人の非人間的な対応に遂には怒り心頭になり机を叩いて大声を出してしまいます。それは交渉の中のひとつの現実です。
 
 しかしテレビニュースを見ていると何度も何度も自分のその姿が繰り返し放送されます。見ている視聴者にしては緒方正人は危険人物、恐い人という印象がどうしても拡大します。そのことだけではなくテレビが流す「水俣」のイメージがいかに現実の時間、空間とかけ離れてある部分だけを集中的に流し誤解を与えているかに気づきます。わたしはこの時テレビ局員でしたからこの話はとてもインパクトがありました。
 
 送り出す側にいた人間として深く考えるべき「事件」です。その後緒方さんは「チッソ(水俣)はわたしだった」という衝撃的な本を出されます。そして患者運動から退き一線を離れます。このタイトルの響きは今まさに全国民に問われていることと感じます。わたしは当時、ドキュメンタリーを制作する側のテレビ局にいながらもいつも水俣病交渉で黙って下を向いている公務員の側にもし自分がいたらこの緒方さんの抗議にどう答えられるか、を考えていました。
 
 取材する側からだけではなく、される側、批判される側からの視点。庭に投げ出されたテレビによってすでにテレビ局は緒方さんから批判されていました。が、彼は自らを「チッソだった」と理解した時点から水俣病患者という一人の人間を超えて人類という地平に立たれたのではないかと感じました。大震災によって「水俣」が終わってないことを感じ、緒方さんを思い出します。


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