2010/03/30

30分の1秒の世界で総合的な企画力養成

30分の1秒の世界の愉しみを久しぶりにこの数日間味わった。映像編集の世界のことだ。14年ほど前から住民制作番組に徹してきたのであまりこういう細やかな編集はやらないできていた。しろうとのみなさんにはまず目に見えないと同じような細やかさとスピードだから、住民ディレクターの世界ではなかなか披露する場面がない、いや、なかったといったほうがいい。

30分の1秒の世界は普通の人が見てても恐らく見えないと同じものだ。オウム真理教がにぎやかだった頃映像の中にそれこそ一コマづつ見せたいものを忍び込ませ潜在能力に働きかける手法が話題になったことがある。カタカナの呼び方を今は忘れてしまったがあれは普通の人の目には認識できないほどのものだ。しかしテレビやそれより前のフィルムの映画はその一こま一こまがとても重要という世界だ。

わたしは性格的にも実際的にも職人的な技術論はあまり好きではないが、実際に住民ディレクター番組や住民制作番組を現場で一緒に創っている時にはそういう30分の1秒の世界はいつも見えているので気になる。気になるが気にしているととてももじゃないが現場がすすまない。この数日間もたまたま最近話題になっている杉並の住民ディレクター番組を制作中だった。

ところが今回のは最初から大変大きな課題を背負った番組だったので簡単に完成するとはおもってなかったが、果たして久しぶりに相当時間かけてしまった。これはだからどうしたということではなく、とてもいい経験だったことをいいたい。時間をかけるというと一体どれぐらいの時間をかけるのか?ということもなかなかピンとはこないとおもう。例えばまずは住民ディレクターの方数人が延べ一週間、時間にして約50時間かけたとする。その素材を普段は3日、約30時間かけてスカパー! e2の15分番組を制作する。

   同じ15分番組を今回は取材、収録、打ち合わせに恐らく3日、約20時間、編集に10日約70時間かけたぐらいだとおもう。ただ今回は自分にも事情があってこれをやる中で色々と実験していたこともあった。だから差し引いて考えないといけないのだが、その分住民ディレクターさんにも寄り道をさせてしまった。この寄り道が総合的な企画力を養成するプロセスなので怠けているわけではない。

さてそれで膨大な時間といってよいかどうか、だが、職人さんがものを創る時の時間は基本は同じようにきりがないはずだ。番組は締め切りがあるだけ助けられることが多いが、締め切りがなければすすまないという当たり前の怠け癖のある人間の本質もある。そして30分の1秒のところは一般の方が見る分には問題はないちょっとした切りかすが残っているようなものだ。それをいちいち気にしていてはもともと大味なイノシシ鍋に味の素を振りかけるようなものであまり意味はない。

大味の醍醐味。

これが住民ディレクター番組の要だ。本来素人が映像や音声や文字で表現するのだが生活はプロだ。一方メディアを使えるほうは生活は見事に素人だ。コンビニ弁当で暮らしている。ふとんでまともに寝ない。休みにぶらぶら桜を見に行ったりしない。寝ている。そういうメディアのプロが生活のプロに求めるのは味の素の話が多い。イノシシを撃ち取ってきた猟師からすると全く関心のない話だ。

脱線したが、膨大な時間をかけて編集する時は頭がとてもクリアになる。日頃は大雑把に処理している日常のことが映像になって残っていてそれを30分の1まで絞り込んできれいにカタチを整えるとすっかり気分がいい。彫刻家のノミで木をさくっ・・さくっ・・と彫り込んで行くような感覚がある。住民ディレクター現場では話せない、体験させてあげられない職人の世界。でもそろそろこの世界にまで踏み込んできた住民ディレクターの人達が出てきた。

まっこと面白い時代になってきたっちゃあ。かも。


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2010/03/25

豊かに先を創る

内面が穏やかで心が澄んでいる状態は閃きが次々と起こってきます。身体が動いていても落ち着いているとき、身体は静かであっても内面がばたばた慌ただしいとき、いろんな状況がありますが人間の内面は不思議なものです。基本的には好きなことをしたり好きなことを考えている時は静かで落ち着いています。あまり好きではないことを(好きなことをやるために)やらざるを得ないとき、先は見えているので動けますがその瞬間瞬間はやはりざわつきます。この状態をもっと豊かにしていくことを考えています。瞬間瞬間豊かに生き、先を創らないと先がない。多くの人の動きや結果を見ていてもそれは十分すぎるほど証明されていますから。


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2010/03/19

「知られる権利」なう

街頭テレビからツィッターまで、メディアの歴史は同時に人の歴史だけれどもずっとメディアとは関係なく暮らしている方々の生活をどう伝えるか?。日本で最初の放送評論家、志賀信夫さんは14年前、それを「知られる権利」と言った。ビデオジャーナリストも導入された時代。14年前が市民メディアの草創期であったのだけれど・・・。奇しくも住民ディレクターもその頃にスタートした。


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2010/03/18

今、東峰村で。大名なう。

今日は何度か東峰村と博多大名のコラボについて書くのですが、なんだかうっかりミスで消えてしまうこと数回。ご縁がない。その分はツィッターや住民ディレクターNewsにて書き込んでいますが。東峰村の方々に一番参加してほしいのですが、まだ動きはありません。わたしが知っているツィッター活用者の一人も今日から村外へ旅立っているので(関係ないか!?ネットだから)今のところ繋がってない。村役場は引っ越しやら年度末の整理で情報発信もなかなか出来ない様子。やはり明日からのメディアカフェでの伯夫さんと大名の山本さんのコラボ?!に期待。東峰村ですぐにツィッターが流行るということはなくてもこの動きは誰かに実感してほしい。今は2600人を代表して梶原伯夫さんに期待したい。話は大袈裟になってしまったが、いつもこういう動きは同時進行なので経験するかどうか。


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2010/03/15

84歳の吉本隆明さんの講演会で閃いたこと。

 吉本隆明さんが84歳で講演がしたいとの話になって2000人の前で話す番組があった。自己表出、指示表出という言葉と沈黙の芸術、コミュニケーションのことばなど興味深い展開ではあったが流石に84歳という高齢で数時間の講演をされるというのは精神と体力のバランスが保てなくなる感じがしました。ただお顔を拝見していると89歳で一昨年亡くなった母と共通する表情をみつけ安心しました。いい年のとり方をした人はああいう表情になるんだな、と母を思い出しました。


 それと脈絡はあまりないのですがお話を聞いているうちに自分の映像サポートのことが見えてきたりしました。元々芸術ではなく生活に根ざした企画ニュースのようなものですが、カメラも持ったことがない人が自分自身の関心があることをノウハウは勉強せずにいきなり撮る。その中に必ず撮りたいことが入っているのでそこを伺っていると何を伝えたかったのかがわかってくる。映像表現ということでは色々とやってきた自分は例えばこうするとどうなんでしょう?という編集をしてみせる。すでにこの段階でこの映像は限りなくわたしの作品になっているのですが、元素材は相手の人ですからあくまで相手の代理表現になります。


 このとき相手は自己表出(表現)をしていてわたしは指示表出(コミュニケーション表現:相手にわかるように表現する。自己の裡から湧き出る「自己表現」でない)というような話になります。この言葉の定義はここで追求しても無理なのでこの辺にします。この話でいいたいことはわたしが相手にこうすればどうでしょう?と編集するその映像表現はもしかしたら課題解決表現かもしれないな、と感じたのです。相手は何かいいたいことはあるけれどうまくいえない。その状態で撮ってみる。そこにはいいたいことの素材は入っている。しかし、うまく編集は出来ない。その編集が整理できるとほとんどの方が気分がすっきりするといわれます。ある種の課題解決につながっているのでは、と吉本隆明さんの沈黙の芸術論を聞いていて閃いたことです。十分語り尽くせていないですが、このテーマはまた書くと思います。

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2010/03/13

春、社会人1年生?!太陽の季節へ

 昨日東峰村には春が来ているでしょう、と書いたら今日の東京はすっかり春を通り越そうとするぐらい暖かくなった。さっき見たら20度でした。ラーメンを食べたら暑くてとうとうランニング姿になっていた。春への準備を整える時期で今はあまり外には出ませんがこうなると自分の季節が来たと俄然力が出てくる。寒いのはどうも苦手で動きが鈍くなる。誰でもでしょうが、しかしやはり北国の人は強い。

 瀬戸内海気候で育ったのでほどほどに暖かく、そう寒くもない地域だとおもいますが、やっぱり寒いの大の苦手。アフリカに行くと相当熱砂地帯を歩いても問題なく、エネルギーが身体にたまってくる感じがあります。充電されるような感覚です。熊本も夏はとんでもなく暑くなり湿気が強くよく倒れる人がいるのですが、わたしは夏もわざわざ日なたを選んで歩くほど太陽が好きです。太陽に当たらないと電池が無くなっていくような感じがいつもあります。冬は電池切れが起こりやすい。

 人生はじめてのオーダースーツも仕立ててもらい4月には完成するようですので今年はいよいよ社会人1年生の気分です。これまでの準備に手間取ってしまいましたが、今振り返れば必要なことをひとつひとつ解決していっただけだったと感じます。自分自身との出会い、探求、その先にきっとある生まれながらもっている資質を生かす仕事との出会い。社会人1年生ですから希望に溢れます。いよいよ春です。 


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清らかな水、食、ひと

タイトルバックの写真は福岡県東峰村でいつもお世話になる旅館の部屋の窓から見下ろしたら見える小川です。少し前に撮ったのでまだ冬の表情ですがそろそろ春の小川の歌が聞こえてきそうな季節になってきました。まだ寒いですが、きっと東峰村には春が来ているでしょう。
朝起きて窓を開け、冷たい空気が入り込む中、ぼんやりと水の流れを眺めていると透き通った水の清い流れにすっかり気持ちも清められます。

この川の流れを堪能したら、やはり川が目に入る光明石の風呂にゆったりつかり身体の芯から温まります。やはり少し窓を開け、鳥の声も聞こえてきます。風呂から上がると本当に美味しい山の朝食が用意されています。お米もみそ汁も、梅干し、漬け物、魚、などがお膳にバランスよくのっています。実に美味しい朝ご飯です。

地域の魅力を伝えるというのはこうして訪れた一人一人が体験を語ることが最も伝わるのでしょう。語るわたし自身は川や風呂やお膳のイメージを浮かべながら語っていますから、実際にそういう映像をお見せしながら語ることが文章の世界とは違うリアルな現実(に近い)感覚を伝えます。しかし、語りありきです。語りがないなら映像の魅力は半減します。最も映像が言葉を不要にする力がある場合は逆です。余計なことはしゃべらない方がいいに決まっています。

アートならそれでいいのですが、生活、暮らしを伝えるのはやはり暮らしの息吹が欲しいと感じます。その息吹を伝えるのは人です。東峰村の地域SNSを見ていたら元永英美さんが94歳のお母さんの誕生会を二人きりでされて、赤飯とエビの天ぷら、焼き魚で乾杯したと書いておられました。

その赤飯やエビ、魚がとても美味しそうに感じました。ブログに愛情がたっぷり漂っていました。http://toho-sns.jp/blog/blog.php?key=1693

☆下記サイトにて元永英美さんの特集中

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2010/03/09

ツィッターとの連動

元々ここで書こうと考えていたことの多くを今ツィッターで書いているのが現状です。向こうにも書きましたが140文字というのが決まっている使いやすさがあるのですね。Now&Hereはふたつで一体となってきましたので一応のご報告。とはいえ、じっくりと考え、整理する時はやはり140文字に関わらず書いた方が落ち着くということもあります。今は書類探しで時間がなかったのですが・・・。


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2010/03/08

山、田畑、海の最先端メディア模索中

東京にいる時はほとんど学生生活です。学生時代のような狭い部屋に(倉庫ですがどう見ても)いろんな道具がごろごろ転がっています。仕事部屋といえば格好がいいがまたすぐに使うからついついそのままの状態になるとあっと言う間に部屋中足の置き場もなくなってしまう。集中してるとご飯も忘れ、面倒なのでカップヌ―ドルやパンが増える。今もそう、すでに午前3時過ぎ、今からコンビニに出るのも面倒なので地震に備えて買い置きしているカップラーメンに。

とはいえこういう生活は苦ではない。だから年齢を忘れいまだ「学生」をやっていられる。ツィッターでは閃いたらメモっているようなものですが、さきほどから考えるのは紹介したい人びとのこと。八百万人!「やおよろずびと」を「はっぴゃくまんにん」と読めば、もしかしたら世界中にそれぐらいの人が待っているのか、とも想像してしまう。意味はやおよろず、なので多種多様な大勢の人びとのこと。

日本の神々が八百万であることから同じく八百万の人びとに視線がいくのです。ツィッターを覗いているとどうしても山、川、田畑、海の人びとにはなかなか会えない。実際フィールドで暮らす人びとはツィッターやSNSを知らないか、知っていても使わない、使えない人が圧倒的だとおもいます。岩手三陸海岸の青年漁師さんたちがブログで漁の模様を送る漁ログもやはり実際は漁協の方や県庁の方がサポートしておられる。

それは現実的な手だてなのでまずは前に進むことが大事です。わたしが模索するメディアはそろそろ世の中に姿を出して行くべき時が来ていますが人のつながりが要ですから身の丈サイズを間違うとすぐに停まってしまう。今月はそこを見立てる月。そういえば教会通りのテーラー中山さんにスーツを見立ててもらっている、はじめての経験、これも楽しい。


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2010/03/03

はじまり・・・、27年前。

昨日3月2日は個人的に(でもないんですが今は)とても大事な日でした。その日にいつの間にか熊本に帰っているというのも不思議なことです。ざーっと振り返ると27年前、熊本のテレビ局に入って3年目です。やっとテレビ局の仕組みもわかり「ズームイン!朝!」や「24時間テレビ」、「11PM」など日テレの大番組も経験してテレビ局のネットワークがだいたいわかってきた頃でした。また熊本では98市町村を歩くニュース企画に乗り出した頃です。今は3分の1になりましたが当時は98も市町村があったのです。まだ山江村が熊本県にあること自体知らない頃です。

テレビのひとつひとつにとても時間がかかり手がかかりお金もかかることにやっと慣れはじめました。なにしろ30分のドキュメンタリー制作に1年をかけ、何百万という予算をかけ、100倍以上の取材テープを使うということが普通でした。機材が大きく誰でも簡単に使えないのが最大のネックでした。コンテンツを創る発想よりは撮影する技術、編集機を動かす技術がないと番組を作れませんでした。だから必ず技術者がパートナーとしていて彼の考えを通さないとカタチになりません。

産まれた地域も環境も性格も何もかも違う、しかもあちらは純粋理科系ですから発想は全く違うのでわたしが出そうとする表現が簡単には通じないのです。このイライラ感がオールインワンの住民ディレクターを産んだとも言えます。閃いた時に自由にやってみる、だめだったら即やり変える、それでもだめだったら最初のままでいく。というようなことが簡単には行かないのです。最初に戻るなら最初からそうすればよかったという実に非創造的な話に時間をかけるのです。

あーーーーーもうやめたっあ!若い頃は結構短気でした。

「あきらめ」です。スタートは。しかし、技術信仰の時代はあれから約30年、終わろうとしています。少なくとも暮らしの現場ではほとんどの技術がおじいちゃんやおばあちゃんでもやれる簡単で低コストのものになりました。

後は何が残るのでしょう?

ああでもない、こうでもない、やっぱり違うなあ、最初のものに戻ろう・・・、という柔軟な発想、自分でやってみて答えを出すやり方、そのプロセスです。創造の要は。

27年前、そういうスタートを象徴することが同じ日本の中ではじまっていたのでした。



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2010/03/01

熊本のおばちゃん

大阪のおばちゃんから熊本に戻り熊本のおばちゃんたちに会ってきました。と、いってもおばちゃんという親しみある呼称のニュアンスをそのまま受け取ってくれるおばちゃんたちです。熊本も熊本市内から約1時間半、九州山脈の裾野にある人吉のほうへ奥深く入っていくとまさに愛くるしい「おばちゃん」たちがいっぱいいます。自称も他称もおばちゃんなのでここでは気遣いが不要です。

熊本市内でもおばちゃんと普通にいえる人たちは子供との関係から自分のことを考える女性が多い感じがします。いつも子供たちと付き合っているので普段から「おばちゃんはね」と名乗り、「おばちゃん」と子供から自然に呼ばれているので違和感がないようです。

そういえば東京でもその関係性で生きている女性はごく自然に「おばちゃん」ですね。自分を振り返っても中学校の頃から実際に「おじちゃん」でしたので全く違和感がなかったのです。姉が一回り上でわたしが中学2年のときすでに子供ができてわたしには甥っ子がいたのです。そうしてみると言葉はやはり文化そのものですね。今でもおばちゃんといわれて怒る人の心境がわかりません。でもそんな女性の感じはわかりますのでそういう女性にはあまり近づかないようにしています。
これも君子危うきに近寄らず、でしょうか。


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