2010/02/20

「父親殺し」から「父親生かし」へ

父親と話したという記憶はほとんどありません。別に若死にしたわけではなく90歳手前までの長生きでした。父はシベリア抑留兵だったので帰国が随分遅れ、日本に帰った時はすでに母や祖母が食堂をやりくりして家族、親戚が食いつないでいたようです。最近シベリア抑留体験などの書籍を読むと、なるほど相当ひどい扱いをされ、帰国後の日本でも辛い立場にあったことがわかります。就職もままならなかったようなので父の屈折した無口はそこから来ていたのかな、と最近やっと理解できるようになってきました。そんなことにも無頓着で大学に行き出した頃から父と公然と酒が飲めるようになったと思い、誘いましたが自宅で飲むだけで別に口は開きません。それでも少しずつ重い口を開いては兵隊時代、シベリア時代の話の少しだけを聞いたように覚えています。が、核心には至りませんでした。父からするとそこまでをどーんとキャッチできるわたしの状態ではなかったのでしょう。


90歳直前で病院のベッドではありましたが苦しまずに亡くなりました。わたしは最も忙しそうにしていたテレビ局時代のど真中で入院してからもろくに見舞いにも行きませんでしたがこの時は珍しく故郷に帰り見舞いました。結局たまたまわたしが一人で看病している時にやすらかに永眠しました。わたしが帰郷し見舞った時の瞬間にとてもうれしそうにこちらを見つめた瞬間をはっきり覚えています。ですから悔いはないのですが、父にしろ一昨年亡くなった母にしろ産み、育ててもらった恩に対して十分還せてないという気持ちは山ほど残っています。その気持ちは次世代のさらに次々世代のさらに・・・、と子々孫々にわたって還す気持ちはずっとあります。人間として生をいただき今ある幸運に感謝し、感謝の気持ちは後世に表していこうと考えます。今あることの感謝も勿論です。


そんなこんなで昨夜杉並区の親父さんたちとご一緒させていただき自分の親ではないからこそざっくばらんに話せて語っていただいたものを感じます。男と男にはやっかいなものがあり、昔から「父親殺し」というテーマは文学の永遠のテーマです。父親に頭を抑えてこられた人達の話をよく聞きますがいつもうらやましく聞いてました。無口で年が離れすぎていることもあってほとんど対立関係には無く、かといって存在感も希薄だった父の存在は今頃気になり出しています。わたしがしようとしているのは父親生かしです。杉並教会通りの親父さんたちとの飲み会はあらためて「父」を考える貴重な場でした。感謝です。


八百万人紀行(やおよろず・ひときこう) http://www.yaoyorozu-hito.jp/
住民ディレクターNews http://blog.goo.ne.jp/0811prism
いだき http://www.idaki.co.jp/

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