2010/02/26

大阪のおばちゃん

気の置けない人というと気持ちが通じる人のことで気を遣わなくていい関係をいいますが、学生時代初めてこの言葉を聞いたとき逆の意味にとり相手に大変失礼なことをしたことがあります。「気」が「置けない」からいつも注意していないと何をやらかすかわからないという意味かと勘違いしていました。相手は最大級の褒め言葉を発してくれたのにこちらは最低の人間に見られたとの勘違いでした。同じようなことは言葉や文化の違いでよくあるものです。特に女性との間では男同士のようにさらりと行けないケースが多いので困ります。


今回大阪に来てすぐに大阪のおばちゃんの洗礼を受けました。最近は大阪のおばちゃんのえげつないところが強調されているようですが私の子どもの頃は「おばちゃん」というととても親しみをもった信頼感溢れる呼称でした。実際20代ではあり得ないですが子どもの頃30代あたりの女性はすでに「おばちゃん」と呼んでニコニコ迎えられていました。勿論大人になってからですが熊本に住みはじめてからそんな気持ちで4、50代の女性におばちゃんという呼称を使うととんでもない逆鱗を買いました。すでに「えげつないおばさん」的なイメージが流れていた頃かもしれませんがそれにしても話している人の文脈からわかりそうなものでした。

逆に熊本では自分より年下の者に目上の人に酒をついであげなさいと指示する場合に「(酒を)ついでやれ」という言い方をします。先輩に酒をつぐのに「ついでやれ」という横柄な言い方は何だ!といいたくなりますが周囲を見ているとこういう言い方はどうも丁寧語扱いではあるらしいのです。熊本では「明日あなたの家に行くね」という会話も「明日来るけん」といいます。誰が?と聞き返すと「わたしが来るけん」となります。主語が相手にあるようなのです。わたしは山口にはじまって大分別府、熊本、ここから全国各地に旅に出始めたのでこういう文化の違いからくるカルチャーショックは慣れていますが、時々こういう文化、言葉の違いから来る争いを目にします。郷にいれば郷に従うという日本人の精神は訪ねて行った側はまずは相手の文化を受け入れるところからはじまるという優れた文化だと感じます。旅人は各地の文化の違いを経験していますが地元にずっと住んでいる人びとは文化の違いを知らないのですから。

ここまで書いて熊本のおばちゃんたちを怒らせてしまったのは自分の方に責任があったと気づきました。まだ4県目とはいえ歩いているのはわたしだったのです。共感を得ることの難しさを日々感じているところですが一人一人の間には深い深い溝がありますね。好きになってしまうと消えるのですが。愛憎はコインの裏表、一つ間違うと真逆になります。「君子危うきに近づかず」も賢い大人の知恵でしょうな。


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