一瞬の出会いをキャッチする感受性について今朝、村のゴミ出しの帰りに考えました。その瞬間は自然との出会いでした。ゴミを出した帰り道、東峰村の山々が霧におおわれ頭は出していますが北斎の浮世絵の富士のように、・・・、そう!あの富士の光景に今朝東峰村で出会ったのです。
現代的な頭は瞬間携帯で写真を撮ろうとしたのですが車を止める場所を選んでいるうちにあっという間にその光景は失せました。心の裡にはしっかり焼き込まれましたので写真はなくてもいいのですが例えば本当の芸術家はあの瞬間にシャッターを押すのでしょうし、北斎のような絵心がある人はしっかりと焼き付いた富士を絵筆で再現するのでしょう。その瞬間は音楽にもなっています。が、わたしには奏でることはできません。
自分はなぜ、こんなことにこだわるのでしょう?答えは他者にこの出会いのチャンスが山ほどあるこの東峰村の生活を伝えたいから、というのがひとつです。なぜ?伝えたい?・・・・、答えは俗世間的なことから内面深いことまでいろいろとあります。ここが芸術家と違うところでしょう。生活人と芸術家を交ぜくって1個にしてしまうようなある何かを自分には感じます。人であり、自然であり、共同体や自分自身の生活史もあります。畢竟、人はただ一つの自分だけの道を見いだし真っすぐすすめるかどうか、というところに落ち着きます。
僕のまえに道はない、僕のうしろに道はできる。
中学、高校生の頃なんとなく「当たり前だよな」と感じていた高村光太郎の詩、一瞬の光景の連続を感じればばこの詩は響きます。久しぶりに光太郎に出会えたのは今朝のゴミ出しのおかげでした。
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