2010/01/31

若いまま生きるには

昨年の秋に20代半ばの女の子から「青くさい」といわれたことを思い出し、考えています。思い出すきっかけは一昨日大阪で親しい仲間と食事をしている時にたまたま別の20代半ばの女の子がいてわたし自身はあと50年は全国を歩き、元気な人びとを応援しつないでいく仕事をするとの話をしていたときでした。わたしと同じ年格好の男性は「あと5年」と冷やかしましたが自分の中では5年なんて感じは全くなくてやっとスタートに立った今、あと50年は働き特に若い人のお役に立てるように生きられる環境を創る一人として生きると考えています。

昨年からスタートラインにつくためにゼロスタートを繰り返し、何度も何度もリセットし準備をしてきたのです。どんどん自分の中から余計な物がなくなり身体が軽く軽くなっているのです。20代の頃の瞬発力は若干衰えているかもしれませんが、逆に長期戦、持久戦は今の方があるのではないかと感じます。1500メートル持久走が苦手でしたが今なら結構いけるのではと感じます。

今朝も昨夜遅くまで京都で仕事をしていたので夜行バスで東京に移動しましたが、20キロはあるリュックと30キロはあるキャリーバッグをもって東京の長い道のりを歩いてきました。バスの中では久しぶりにぐっすりと眠り疲れはすっかり無くなってしまっていました。
身軽なのです。心配事や気になる事、身体の不調などが全くない状態ですから常に無の状態と感じるほどです。常に何もない状態で生きる事は若い頃からの憧れでしたし、求めてきたのですが、時間を超える世界である事がわかります。痴ほう状態である人が何月何日かを覚えてないという事がありますが、覚醒した状態で同じように今日は何曜日で何日か等という事が全く必要ない生き方があるのです。

1年間名刺を持たずに仕事してきましたが、先日やっとつくりました。新しい動きをするためにやっと必要になったのですが名刺だって無いなら無いで何とでもなるのです。無名、無肩書きの状態はまさに無を表す事だったのかもしれません。実際、人は裸になった時何も飾る物はなくその人自身であるしかないのでどんな人間も裸になればその本質がそのまま表れるのです。服やアクセサリー、パソコンやPDA、拳銃や爆弾などの武器、と人間はいろんな道具をつくり持ち歩いていますが道具も一切なくなった時、裸の人間は自分の身体だけです、頼れるのは。その身体を鍛えるのに走ったり、筋力トレーニングをしたり、ダイエットだとか言ってる人が多いですが田舎に行けばすぐわかります。田んぼや山や海、川で働く人達はとても自然で美しい肉体をもってしなやかに動く身体です。しかし心配事があるとかストレスがあるというのは都会も田舎も同じです。特に今のような時代は。

内面の輝き、心配事が何も無い状態、そういう経験が必要と感じます。わたしは幸い内面も身体もひとつで「今この時」の瞬間瞬間で生きる生き方を探求し実践されてきた人生のアーティストいだきしん氏との出会いから自分自身のことをずっと探求する習慣がついているので今に至ったと感謝しています。
幅広く多種多様な活動をされているいだきしん氏の主な活動のひとつであるピアノコンサートが明日もあり東京に戻ってきました。即興のピアノ演奏によって観客一人一人の生きてる状態を生命感応で受容し即興ピアノで表し、表現する事で本当の自分の状態を経験するという場を創造されます。
コンサート会場では一人一人は自分の生きてる状態を音で経験し、同時に他者との交流を音を媒介に経験します。媒介するということではいだきしん氏の即興の音は生き生きと生きる力を媒介するメディアともいえます。

関心のある方は下記いだきHPを参照してください。
青くさいと言った彼女にわたしがどう映ったかはよくわかりませんが、久しぶりに会った熊本の人達からは「変わらんね」とみんなから言われましたのできっとずっと青くさいのでしょう。


八百万人紀行(やおよろず・ひときこう) http://www.yaoyorozu-hito.jp/
住民ディレクターNews http://blog.goo.ne.jp/0811prism
いだき http://www.idaki.co.jp/

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